【古事記】第十四代、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)「后と御子」

倭建命(やまとたけるのみこと)と布多遅能伊理毘売命(ふたじのいりびめのみこと)の御子である帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと:帯中津日子命)は、

穴門(あなと)の豊浦宮(とようらみや:山口県下関市長府豊浦町)、また筑紫の訶志比宮(かしひのみや:福岡県東区香椎)で天下を治め、第十四代、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)となりました。

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が、大江王(おおえのみこ)の娘の大中津比売命(おおなかつひめのみこと)を娶して生んだ御子が、香坂王(かぐさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)の併せて二柱になります。

また息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后(じんぐうこうごう))は大后になり、この大后を娶して生んだ御子は、

品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おおともわけのみこと)またの名は品陀和気命(ほむだわけのみこと)の併せて二柱になります。

この太子の御名が大鞆和気命(おおともわけのみこと)と名付けられたのには理由があり、生れた時、鞆(とも:弓を射る時に使う肘あて)の様な形の肉(あるいはコブ)がありました。

ゆえに、そのような御名に付けたのです。また、この太子は母の胎内に居ながら国を治めます。

この御世(みよ)に淡道(あわじ)の屯家(みやけ:淡路島の朝廷の直轄地経営の倉庫や土地(御料地))を定めました。

 

続きを読む 仲哀天皇の崩御と神功皇后(じんぐうこうごう)の神がかり

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