【古事記】伊余の湯へ島流し、そして心中

その後、軽太子(かるのひつぎのみこ)は伊予湯(いよのゆ:愛媛県松山市)に島流しにされました。

また、島に流されようとした時、歌を詠みました。

「天飛(あまと)ぶ 鳥も使ひそ 鶴(たづ)が音の 聞こえむ時は わが名問(なと)はさね」

訳:

「空を飛ぶ鳥も使いの鳥だ。鶴の声が聞こえる時は、私の名を尋ねなさい」

この軽太子の歌った三首(二首は軽太子(かるのひつぎのみこ)と軽大郎女(かるのおおいらつめ)「禁愛」での歌)は、天田振(あまたふり)といいます。

また、続けて歌を詠みました。

「王(おおきみ)を 島に放(はぶ)らば 船余(ふなあま)り い帰(がへ)り来むぞ 我が畳(たたみ)ゆめ 言(こと)をこそ 畳と言(い)はめ 我が妻はゆめ」

訳:

「王(私)を島にお追放したとしても、帰ってくるぞ。私の座敷はそのままにしておいてくれ。言葉でこそは「座敷」と言ったが、我が妻がそのままでいてくれ」

この歌は夷振(ひなぶり)の片下(かたおろし)です。

*片下(かたおろし)は、歌の調子を下げた歌とされます。

また、その衣通王(そとおりのみこ:軽大郎女(かるのおおいらつめ))は軽太子(かるのひつぎのみこ)を想い、歌を献(たてまつ)りました。

「夏草の あひねの浜の 蠣貝(かきかひ)に 足踏ますな あかして通れ」

訳:

「夏の草が萎(な)える、あひねの浜の、牡蠣の貝殻に足を踏まないように。夜が明けてからお行きになって下さい」

後になり、その恋しさに耐えきれず軽太子を追っていき、歌を詠みました。

「君が往(ゆ)き 日長(けなが)くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ」

訳:

「あなたが往(行)かれてから日が長く経ちました。迎えに行きます。もう待ってはいられません」

ここに「山たづ」と言うのは、今の造木です。

*造木(みやつこぎ)は「ニワトコ(スイカズラ科の落葉低木)」の古名のことと思われます。かつて魔除けや正月の飾りなどに用いられたとされます。(新年の行事を迎えてしまったほど長く経ったとの意味か)

そして追いついた時に、軽太子(かるのひつぎのみこ)は軽大郎女(かるのおおいらつめ)を待ち懐ひて(抱き寄せ)歌を詠みました。

「隠(こも)り国(く)の 泊瀬(はつせ)の山の 大峡(おほを)には 幡(はた)張り立て さ小峡(をを)には 幡張り立て 大小(おほを)よし

仲定める 思ひ妻 あはれ 槻弓(つくゆみ)の 臥(こ)やる臥やりも 梓弓(あづさゆみ) 起(た)てり起てりも 後(のち)も取り見る 思ひ妻 あはれ」

訳:

「隠れた処にある泊瀬(はつせ)の山の、高い峰には幡(旗)を張り立て、低い峰にも幡(旗)を張り立て、仲を定めた愛しい妻。伏していても、起きていても私が面倒を見る。愛しい妻よ」

また、続けて歌を詠みました。

「隠(こも)り国(く)の 泊瀬(はつせ)の河の 上つ瀬に 斎杙(いくひ)を打ち 下つ瀬に 真杙(まくひ)を打ち 

斎杙には 鏡を懸(かけ)け 真杙には 真玉(またま)を懸け 真玉如(な)す 吾(あ)が思ふ妹(いも) 鏡なす 吾が思ふ妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲(しの)はめ」

訳:

「隠れた処にある泊瀬(はつせ)の川の、上流の瀬には清らかな杙を打ち、下流の瀬には立派な杙を打ち、清らかな杙には鏡を懸け、立派な杙には美しい玉を懸け、

その玉のように私が愛しく思う妹よ、鏡のように私が愛しく思う妻よ、あなたがいると言うならばこそ(あなたが生きているならばこそ)、家にも行くし、故郷をも偲ぶだろうが」

このように歌い、二人は共に自ら死んでしまったのです。

*もう生きてはいないだろうが、「もし生きていたのなら、あれもしたい、これもしたい」と心中前の最後の歌です。

また、この二首の歌は読歌(よみうた)で、読むように朗読した歌です。

 

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