垂仁天皇(すいにんてんのう)は、曙立王(あけたつのみこ)に誓約(うけい)をさせ、その後、曙立王(あけたつのみこ)と共に兎上王(うなかみのみこ)を天皇の御子である本牟田智和気王(ほむちわけのみこ)に従わせ御差し遣えになりました。

その時にもまた、太占(ふとまに:鹿の方骨を焼き、ヒビの入り方で占う古代の占い)で占いうと、

「那良戸(ならと:大和国、山代国間の奈良山越え入口)から行くと跛盲(あしなえめしい:足や目が不自由な者)に遇う、大阪戸(大和国、河内国間の大阪山越え入口)からもまた跛盲に遇う。木戸(大和国、紀伊国間の真土山越え入口)からは縁起が良い入り口である」

とでましたのでそのような道のりで発ちました。

*当時の時代は、手足目など不自由な人に遇うことは不吉と考えていたようです。当然現代では時代錯誤の考え方でそのように思う人はいないでしょう。

そして、本牟田智和気王(ほむちわけのみこ)一行は、行く土地ごとに品遅部(ほむじべ:垂仁天皇の御名代(皇族直属の奉仕集団で身の回りの世話、護衛、食膳の用意など)としての部民)を定めになりました。

そうして一行は、出雲に至り、大神を参拝して帰る時、斐伊川(ひいかわ:肥河、島根県東部および鳥取県西部を流れる川)の中に黒い巣橋(皮付きの丸太を組んだ橋)を作り、仮宮(仮設の住居)を建てて、

そこに、本牟田智和気王(ほむちわけのみこ)にお泊りになって頂きました。

ここに、出雲国造(いずものくにのみやつこ)の祖である岐比佐都美(きひさつみ)が、青葉を山のように積んだ飾り物を作り、その仮宮の川下に立てて、大御食(おおみけ:天皇の食べる食事)を奉ろうとした時、

突然、御子(本牟田智和気王)が話し、おっしゃいました。

「この川下の山のように見える青葉は、山のように見えて山ではない。もしかすると、出雲の石くま(いわくま:くまの漢字は石辺に冋で「クマ-1」書きますが見つからなかったのでイラスト文字です)の曾宮(そのみや:出雲大社か)に鎮座する葦原色許男大神(あしはらしこおのおおかみ:大国主神のこと)を祭るための祭場ではないだろうか」

そのように御子が問いましたので、お供に遣えていた王たちはそれを聞いて喜び、見て喜び、御子を檳榔(あじまき:ヤシ科の植物)の長穂宮(ながほのみや:所在未詳)にお座り頂き、早馬の使いを走らせ、天皇に報告しました。

そして、御子は長穂宮(ながほのみや)で、肥長比売(ひながひめ)という乙女と一夜を共にしました。ところが、その乙女の姿を密かに覗いてみると、なんと蛇の化身だったのです。

御子は、その姿に驚き、恐くなって逃げ出してしまわれました。

すると、肥長比売(ひながひめ)は悲しみ、海原を照らしながら船で追ってきました。

御子はそれを見て、ますます驚き恐くなり、山の尾根の低くくぼんでいる所から船を引き揚げて大和へ逃げて帰りました。

 

さて、ようやく大和へ戻ると、曙立王(あけたつのみこ)と兎上王(うなかみのみこ)は、改めて天皇に、

「出雲の大神を参拝したことによって、大御子が言葉をお話になりました。ですので帰ってきました」

と報告すると、天皇は大変喜びになり、兎上王(うなかみのみこ)出雲に引き返させ、そこに神宮を造らせました。

こうして、天皇は本牟田智和気王(ほむちわけのみこ)が言葉をお話になったことにちなんで、鳥を捕る職業の鳥取部(ととりべ)、鳥を飼う職業の鳥甘部(とりかいべ)、また、品遅部(ほむじべ)、大湯坐(おおゆえ)、若湯坐(わかゆえ)を定めました。

 

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