神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)と五瀬命(いつせのみこと)一行は、さらに東へと進み、浪速之渡(はやなみのわたり:大阪湾の沿岸部)を経て、青雲の白肩津(しらかたつ:所在不明)に船をお泊めになりました。

この時、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ:登美毘古)が軍勢を率いて、待ち構えていました。

神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)達は、船に備えてあった楯(たて)を手に取って船を降りて戦いました。それで、この地を「楯津」と言いいます。

登美毘古(とみびこ)らとの戦いの中、兄の五瀬命(いつせのみこと)は、登美毘古の放った矢が腕に突き刺さり深手を負ってしまいました。

そこで、五瀬命(いつせのみこと)は次のように言いました。

「私は日の神の御子であるのに、日に向かって戦ってしまったせいで、賤(いや)しい奴(やっこ)に痛手を負わされてしまったのだ。これからは、日を背にして敵を討とう」

そして、日を背にするよう南方にご自身たちの軍を回り込ませ進みになり、そこで五瀬命(いつせのみこと)は、海に着き傷つき血の付いた腕を洗いになりました。

それゆえに、その地を「血沼海(ちぬのうみ:大阪府南部に面した海)」と呼ぶようになったのです。

そこからさらに回り込み、紀国(きのくに:和歌山、三重県南部)の男之水門(おのみなと:大阪府泉南市男里か)にお着きになりましたが、そこで五瀬命(いつせのみこと)は、

「賤(いや)しき奴に手傷を負わされて、私が死ぬことになるとは・・・」

と雄叫びを上げ、そのまま死んでしまいました。

それゆえに、この水門を「男之水門(おのみなと)」というのです。

*五瀬命(いつせのみこと)の御陵は、記国の竈山(かまやま:和歌山市和田)にあります。

五瀬命(いつせのみこと)亡きあと、それでも神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は軍を率いて進みになりました。

そして、一行が熊野村(和歌山県新宮市付近か)に着いた時、大熊(大きい熊)が現れ、そして瞬く間に消えてしまったのです。

その時からというもの、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、急に体調を崩し、床に臥(ふ)せ寝込んでしまい、さらには従う兵士達も皆同じように寝込んでしまいました。

するとこの時、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持って、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)が臥せている所へと参上し、その太刀を奉(たてまつ)ると、

神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は正気を取戻し、

「なんだか、長い間寝てしまったようだ」

と仰せになり、起き上がりました。

そして、その太刀をお受け取りになると、何もしていないのに熊野の山の荒ぶる神々は自ら切り倒されてしまって、臥していた兵士達も皆、目を覚ましました。

このような事が起き、神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと)は、高倉下(たかくらじ)に、その太刀をどのようにし得たものなのかいきさつを尋ねまた所、高倉下(たかくらじ)は次のように申し上げました。

「私は、不思議な夢を見ました。それは天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高木神(たかぎのかみ:高御産巣日神)が、建御雷神(たけみかづちのかみ)をお呼びになり、こう仰せになったのです。

【葦原中国(葦原中国:地上、日本)はとても騒がしい様子である。我が子達も困り苦しんでいる。かつてお前が葦原中国を説得し平定したので、お前が降って手助けしてあげなさい】すると、建御雷神(たけみかづちのかみ)はこう答えました。

【私が降らなくとも、その国を平定した太刀があります。ですのでその太刀を降しましょう。高倉下(たかくらじ)の倉の屋根に穴をあけ、そこから落とし入れ事にしましょう】

そういうと、今度は私に【朝、縁起よく目覚めたら、お前が取り持って天つ神御子(神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと))に献上するのだ】と仰せになりました。私は夢で見たとおり朝、倉を見てみると本当に太刀があったので、お持ちしました。」

このように、高倉下(たかくらじ)この太刀を献上しに参上したいきさつを説明したのでした。

*この太刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)、またの名は甕布都神(みかふつのかみ)、またの名は布都御魂(ふつのみたま)といい、石上神社(奈良県天理市)に鎮座しています。

 

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