【古事記】神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征

神功皇后(じんぐうこうごう)は、神託よりつぶさに教えられた通り、軍を整え船を並べて海を渡って進んで行きました時、

海原の魚が、大きいものも小さいものも問わず、ことごとく船を背負って渡りました。

そこに、強い追い風が吹きその風に乗り、船はさらに進み、新羅国(しらぎのくに)へと近づいていきました。

そして、船はその船が立てた波は新羅(しらぎ)の国に押し上がり、その大きな波は新羅の国の半分にまで到達しました。

すると、新羅(しらぎ)の国の国王(こにきし:古代朝鮮語で国王の意味)は恐れ畏(かしこ)まり、

「これよりは、天皇の命に従い、御馬甘(みまかい:馬飼い)として、毎年船を並べて、船の腹を乾かすことなく、棹(さお)や舵(かじ)を乾かすことなくず、天地の続く限り仕え奉ります」

と申し上げました。

これにより、新羅国を御馬甘(みまかい:馬飼い)と定め、百済国(くだらのくに)を渡の屯家(みやけ:国外にある朝廷の御料地)と定めました。

そして、神功皇后(じんぐうこうごう)は御杖(みつえ)を新羅の国王の家の門に衝(つ)き立てて、

墨江大神(すみえのおおかみ:住吉三神(すみよしさんじん)))の荒御魂(あらみたま:荒々しく勇猛な神霊)を国を守る神として祭り鎮め、帰り渡って行きました。

また、神功皇后(じんぐうこうごう)の御腹の子は、新羅征伐がまだ終わらないうちに生まれそうになってしまいます。

そこで、皇后は何とかそれを鎮めようと、石を取り衣服の上から腰に巻き付け生まれそうになるのを堪えました。

そして、筑紫国(つくしのくに:九州)に渡り、その御子(品陀和気命(ほむだわけのみこと:後の第十五代、応神天皇)を無事出産されました。

それにより、その御子の生まれた地のなを「宇美(うみ:福岡県宇美町)」と言います。

また、新羅征伐中に生まれそうになったのを食い止めるため、腰に巻かれていた石は、筑紫国の伊斗村(いとのむら:福岡県糸島市)にあります。

*鎮懐石(ちんかいせき)は壱岐の本宮八幡神社、京都の月読神社、福岡県の鎮懐石八幡宮にあります

また、筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと:佐賀県唐津市の玉島川)に着いて、その川辺で御食事をしていた四月の上旬のこと、

その川の岩にに座り、衣服の糸を抜き取り、飯粒(いいぼ:米粒)を餌にして年魚(あゆ:鮎)を釣りました。

それでその川の名を「小河(おがわ)」といい、またその岩の名を「勝門比売(かつとひめ)」といいます。

それにより、四月の上旬に、女性が衣服の糸を抜き、飯粒(いいぼ)を餌にして年魚(あゆ:鮎)を釣ることが、今に至るまで絶えないのです。

 

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