【古事記】氏姓(うじかばね)の制定

允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、初め皇位(皇帝や天皇の位)に即位される時、そのことを辞退し、

「私には、一つの長い病があるので、皇位を継ぐことは出来ない」

と仰せになり断っていました。

しかし、大后をはじめ臣下たちも強く願い申したため、天下をお治め皇位に就くことになりました。

この時、新羅(しらぎ:朝鮮半島の新羅)の国王(こにきし:古代朝鮮での王の呼び名)が貢物を八十一隻の船に載せ献上しました。

そして、その貢物の大使(おおきつかい:たいし(外交官の最上位)の金波鎮漢紀武(こむはちにかにきむ)という者が、薬の処方よく知っていたため、天皇の病を治療したのでした。

その後、天皇は天下の氏々の人々(世の中の人々)の氏姓(うじかばね)が誤っていることを憂(うれ)い、これでは良くないと考え、

味白檮(あまかし:奈良県の甘樫丘)の言八十禍津日前(ことやそまがつひのさき)で盟神探湯(くがたち)という占いをするための探湯瓮(くかべ)という釜を据えて、天下の多くの臣民の氏姓を正しく定めました。

また、木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)の御名代(みなしろ:朝廷に奉仕するための直属の集団)として軽部を定めて、

大后の御名代として刑部(おさかべ)を定めて、

大后の妹の田井之中比売(たいのなかつひめ)の御名代として河部(かわべ)をお定めました。

この天皇の御年は七十八歳。甲午年(きのえのうまのとし:西暦四五四年)正月十五日に崩御されました。

御陵は河内(かわち)の恵賀長枝(えがのながえ:大阪府藤井寺市国府)にあります。

*陵名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)、墳名は市ノ山古墳(いちのやまこふん)になります。

 

続きを読む 軽太子(かるのひつぎのみこ)と軽大郎女(かるのおおいらつめ)「禁愛」

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