大長谷王(おおはつせのみこ)は、次々と兄弟たちを殺していきました。
そこで、殺された市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の王子の、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)の二柱は、この乱(事変)を聞いて共に逃げ去りました。
こうして、山代の苅羽井(やましろのかりはい:京都府南部辺り)にたどり着き、御粮(みかれい:干してある保存食)を食べている時に、
面黥(おもさ)ける(目尻に入れ墨をした)老人(おきな)が来て、その御粮(みかれい)を奪ってしまいました。
その時、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)が、
「粮は惜しくはない。だけとお前は誰だ?」
と問うと、その老人は、
「私は、山代の猪甘(いかい:猪や豚を飼う部民)だ」
と答えました。
そして、この二柱の王子達はさらに逃げ、玖須婆(くすば:大阪の楠葉)の河を逃げ渡り、針間国(はりまのくに:播磨国(兵庫の南部辺り)にたどり着きました。
そこで、その国人(そこの国の人)の名は志自牟(しじむ)という者の家にお入り、王子である自分達の身分を隠して、馬飼い牛飼いとしてそこで働きました。
また、この袁祁王(をけのみこ)は後の第二十三代、顕宗天皇(けんぞうてんのう)となり、意祁王(おけのみこ)は後の第二十四代、仁賢天皇(にんけんてんのう)となります。