仁徳天皇の御子の伊耶本若気王(いざほわけのみこ)は、伊波礼(いわれ)の若桜の宮(奈良県桜井市池之内)で天下を治め、第十七代、履中天皇(りちゅうてんおう)となりました。
この天皇が、葛城の曾都毘古(そつびこ)の子の葦田宿禰(あしたのすくね)の娘、黒比売命(くろひめのみこと)を娶って生んだ子は、市辺之忍歯王(いちのへのおしはみこ)。
次に御馬王(みまのみこ)、次に妹の青海郎女(あおみのいらつめ)、またの名は飯豊郎女(いいどよのいらつめ)の併せて三柱になります。
当初、天皇が難波の宮(父の仁徳天皇の宮)にいた時、大嘗(おおにえ:新嘗祭(にいなめさい))後の豊楽(とよのあかり:酒宴)で大御酒(おおみき)を呑み、浮かれ良い気分で寝ました。
すると、その弟の墨江中王(すみのえのなかつみこ)が、天皇を殺そうと思い、御殿に火を放ちました。
その時、倭漢値(やまとのあやのあたい)の祖である阿知値(あちのあたい)がひそかに天皇を連れ出して、御馬に乗せて大和へ逃れました。
そして、多遅比野(たじひの:大阪、羽曳野市)に着いた時、目を覚まし、
「ここはどこだ」
と仰せになったので、阿知値(あちのあたい)は、
「墨江中王(すみのえのなかつみこ)が御殿に火を着けたので、お連れして大和に逃げています」
と申し上げました。
そこで天皇は歌を詠みました。
「多遅比野(たじひの)に 寝(ね)むと知りせば 立薦(たつごも)も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば」
訳:
「多遅比野(たじひの)で寝ると(野宿することを)知っていたなら、立薦(たつごも:筵(むしろ:ござの様なもの)をつないで雨風を防ぐための物)を持ってきたものよ。寝ると知っていたなら」
波邇賦坂(はにふさか:大阪の羽曳野市の坂)に来て、難波の宮を遠望すると、その火がまだ燃えていました。そこで天皇はまた歌を詠みました。
「波邇布坂(はにふさか) 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いえむら) 妻が家のあたり」
訳:
「波邇布坂(はにふさか)に私が立って見てみれば、盛んに燃えている多くの家。妻の家の辺りだ」
そして、天皇たちは進んで行きました。