品陀天皇(ほむだのすめらみこと:応神天皇)の御子の若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)が、

その母の妹の百師木伊呂弁(ももしきいろべ)またの名は弟日売真若比売命(おとひめまわかのひめのみこと)を娶って生んだ御子が大郎子(おおいらつこ)またの名は意富々杼王(おおほどのみこ)です。

次に忍坂之大中津比売命(おしさかのおおなかつひめのみこと)、次に田井之中比売(たいのなかつひめ)、次に田宮之中比売(たみやのなかつひめ) 、

次に藤原之琴節郎女(ふじわらのことふしのいらつめ)、次に取売王(とりめのみこ)、次に沙禰王(さねのみこ)の併せて七柱です。

意富々杼王(おおほどのみこ)は三国君(みくにのきみ)、波多君(はたのきみ)、息長坂君(おきながさかのきに)、酒人君(さかひとのきみ)、

山道君(やまじのきみ)、筑紫之米多君(つくしのめたのきみ)、布勢君(ふせきのきみ)らの祖です。

根鳥王(ねとりのみこ)は庶妹(ままいも:腹違いの妹)の三腹郎女(みはらのいらつめ)を娶って生んだ子が、

中日子王(なかつひこのみこ)、次に伊和島王(いわじまのみこ)の併せて二柱です。

また堅石王(かたしはわのみこ)の子は、久奴王(くぬのみこ)です。

品陀天皇(ほむだのすめらみこと:応神天皇)の御年は百三十歳で甲午年(きのえうまのとし:西暦三九四年)九月九日に崩御されました。

御陵は川内の恵賀の裳伏崗(もふしのおか:大阪府羽曳野市誉田)にあります。

 

 

【古事記】 中つ巻(神と天皇の時代)完

【古事記】下つ巻、第十六代、仁徳天皇(にんとくてんのう)「后妃と御子」