天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)の二柱の神は、大国主神に、

「そなたの子、八重言代主神(やえことしろぬしのかみ)は【天つ神の御子に奉(たてまつ)る】と言っているが、他に物申す子はいるのか?」

と尋ねると、大国主神は、

「もう一人、我が子の建御名方神(たけみなかたのかみ)がいます。これ以外に意見を申す者はいません」

と申し上げました。

すると、大国主神が申し上げている最中に、その建御名方神(たけみなかたのかみ)が千人がかりで引くほどの大きな岩を、手の上で転がしもてあそびながらやって来て、

「我が国にやって来て、こそこそと隠れ、物を言っているのはだれだ!ならば私が力比べをしてやろうじゃないか。私が先に手を取って見せよう」

と言い、建御名方神(たけみなかたのかみ)は建御雷神(たけみかづちのかみ)の手を掴みました。

ところが、掴んだ建御名方神(たけみなかたのかみ)の手はたちまち氷の柱へと凍りつき、さらにそれが剣へと変化し、建御名方神自身を襲おうとしてきました。

これに驚き、恐ろしくなった建御名方神(たけみなかたのかみ)は退き、後ずさりしてしまいます。

すると、建御雷神(たけみかづちのかみ)が、

「今度は私が手を取って見せよう」

と建御名方神の手を掴んだところ、その手はまるで若い葦(あし)を握りつぶすかのように、建御名方神(たけみなかたのかみ)の手を握りつぶし、そのままどこか遠くへ投げ飛ばしてしまいました。

歴然とした力の差に恐怖を感じた建御名方神(たけみなかたのかみ)は逃げ出しましたが、建御雷神(たけみかづちのかみ)はこれを追いかけていき、科野国の州羽の海(しなののくにのすわ:信濃国(長野県諏訪湖))に追い詰めました。

そして、殺そうとした時、建御名方神(たけみなかたのかみ)は、

「恐れ多い事です。どうか私を殺さないでください。今後、この地から他にはどこにも行きません。また、父、大国主神の命令にも背くことも、兄、八重言代主神(やえことしろぬしのかみ)の言うことにも背きません。この葦原中国は、天つ神御子の命ずるまま献上いたします」

と言って頭を下げたのです。

*こうして、建御名方神(たけみなかたのかみ)は、今日まで長野県の諏訪大社に鎮座されています。

再び、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)の二柱の神は出雲国に戻り、大国主神に、

「そなたの二人の子、八重言代主神(やえことしろぬしのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)は、天つ神御子の考えに背かないと言ったが、そなたの心はいかに」

と問うと、大国主神は次のように申し上げました。

「我が子、二柱の神が申し上げたとおり、私も同じ考えで背くつもりはありません。この葦原中国はご命令に従い差し上げることにいたします。

ただ、天つ神御子が天津日継(あまつひつぎ:皇位継承)をお受けになる宮殿のように、地面底に届くほど宮柱を深く掘りたて、高天原に届くほどに高く千木(ちぎ)を立てた宮殿に私が住み、祭られることをお許しください。

それが許され叶うのであれば、私は多くの曲がりこんだ道を経て、いく片隅の国(出雲国)に隠れ留まることにいたしましょう。

また、多くの私の子供たち、百八十神(数多くの神)は、八重言代主神(やえことしろぬしのかみ)を先頭に、神々を統率するならば、天つ神御子に背く神などはおりません」

と申し上げました。

このようにして、大国主神のために出雲国の海岸近くにとても立派な宮殿(出雲大社)が建てられ、水戸神(みなとのかみ:「神生み」で生まれた河口を司る神)の孫の櫛八玉神(くしやたまのかみ)が料理を作り、天の御饗(みあえ:飲食のもてなし)を天つ神に献上しました。

こうして祝いの言葉を申し上げた櫛八玉神(くしやたまのかみ)は、鵜(う)に姿を変え、海の底に潜り、海底の赤土(はに:あかつち)を銜(くわ)え採って来て、たくさんの平らな皿を作りました。

また、わかめの茎で臼(うす)を作り、昆布の茎で杵(きね)を作って、その臼と杵で火を起こし、次のように申し上げました。

「私がきりだした火は、高天原の神産巣日御祖命(かむむすひのみおやのみこと:神産巣日神(かむむすひのかみ))の宮殿に煤(すす)の跡が垂れ下がるまで焚き上がる火であり、地の下では岩盤を焚き固めるさせる火です。

そして、楮(こうぞ)で作った縄(なわ:白く長い縄)を延ばし海に投げ入れ、海人(あま)が釣った口の大きい尾ひれも大きく立派な鱸(すずき)を引き上げて、竹で編んだ器がたわむほど沢山の魚料理を献上いたしましょう」

こうして、建御雷神(たけみかづちのかみ)は高天原に帰り、葦原中国を説得し平定したことを報告し、また大国主神は宮殿(出雲大社)の中にお隠れになりました。

 
天孫降臨~邇邇芸命(ににぎのみこと)へ続く