御子(品陀和気命(ほむだわけのみこと))の禊が済み、大和に帰ってきた時、母の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)は待酒(まち酒)を造り用意していました。

そして、その時に息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は御歌を詠まれました。

「この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の司(かみ) 常世(とこよ)に坐(いま)す 石立(いはた)たす 少名御神(すくなみかみ)の 

神寿(かむほ)き 寿き狂ほし 豊寿(とよほ)き 寿き廻(もと)ほし 献(まつ)り来し御酒ぞ 止(あ)さず飲(を)せ ささ 」

訳:

「この御酒は、私の御酒ではありません。酒を司る常世の国におられ、石に宿る少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が、

祝福し踊り狂い、祝福し踊り回って醸(かも:酒を造ること)し、授け下さった御酒です。飲み干しなさい、さあ」

*少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は神産巣日神(かむむすひのかみ)の御子で「大国主神の国作り~葦原中国「少名毘古那神」」で大国主神の国づくりを手伝った神です。

このように歌い、大御酒(おおみき)をささげました。

そこで、建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)が御子の為に答えて歌いました。

「この御酒(みき)を 醸(か)みけむ人は その鼓(つづみ) 臼に立てて 歌ひつつ 醸みけれかも 舞ひつつ 醸みけれかも この御酒の 御酒の あやに うた楽し ささ」

訳:

「この御酒を醸した人は、その鼓を臼のように立てて、歌いながら醸したからか、踊りながら醸したからか、この御酒はこの御酒は、何とも楽しい。さあ」

これは酒楽(さかくら:酒宴の歌)の歌になります。

こうして、太子は第十五代、応神天皇(おうじんてんのう)となられました。

また、父であった第十四代、仲哀天皇は御年が五十二歳、壬戌年(みずのえいぬのとし:西暦三六二年)、六月十日に崩御し、

御陵は河内の恵賀(えが)の長江(大阪府藤井寺市藤井寺)にあります。

陵名は惠我長野西陵(恵我長野西陵、えがのながののにしのみささぎ)、古墳名は岡ミサンザイ古墳です。

また、母の神功皇后(じんぐうこうごう)は御年が百歳で崩御しまし、沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ:奈良市)に埋葬されました。

陵名は狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)、古墳名は五社神(ごさし)古墳です。

 

第十五代、応神天皇(おうじんてんのう)「后妃と御子」