「日本近代化の設計者」——大久保利通ほど、明治の日本を作り上げた政治家はいません。西郷隆盛という親友を敵に回してまで近代化路線を貫き、紀尾井坂(きおいざか)で凶刃に倒れるまで、ただ「日本のため」だけに生きた大久保の生涯を解説します。
目次
大久保利通とは
大久保利通(おおくぼとしみち、1830〜1878年)は、薩摩藩(鹿児島県)出身の志士・政治家で、維新の三傑(西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通)の一人にして、明治政府の実質的な最高指導者です。
幕末期は西郷とともに薩摩藩の倒幕運動を主導。明治維新後は廃藩置県・地租改正・殖産興業など近代国家建設の根幹政策を強力に推進しました。
1878年(明治11年)5月14日、東京・紀尾井坂で不平士族に暗殺されました。享年47歳。その死後も大久保が設計した政策の枠組みは明治国家を支え続けました。
生涯の流れ
西郷との幼なじみ
1830年(天保元年)、薩摩藩の下級武士の家に生まれます。西郷隆盛とは幼なじみで、ともに薩摩藩の「郷中(ごじゅう)教育」で育ちました。
若くして藩政への関心を持ち、島津斉彬(しまづなりあきら)の薩摩藩改革に賛同。斉彬の死後も藩の実力者として頭角を現しました。
倒幕への転換
大久保は当初、幕府との交渉(公武合体・こうぶがったい)路線をとっていましたが、薩英戦争での経験を経て「倒幕しかない」という強硬路線に転換します。
薩長同盟の成立(1866年)でも重要な役割を担い、西郷とともに倒幕の実現に向けて動きました。戊辰戦争では新政府軍の政治的な指導者として各地の戦局を指揮しました。
岩倉使節団と内治優先
1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて、岩倉具視を全権大使とする使節団の副使として欧米を歴訪しました。アメリカ・ヨーロッパの工業・行政・軍事・教育を実地見学した大久保は、「日本が列強に対抗するには今すぐ内政の充実が最優先だ」という確信を深めます。
征韓論との対立と西郷との決裂
帰国後の1873年(明治6年)、最大の政治的危機が訪れます。朝鮮への使節派遣(征韓論)を主張する西郷隆盛に対し、大久保は「今は内政を優先すべき時だ」と反論しました。
かつての親友・西郷との対立は「明治六年の政変」として知られ、西郷が政府を辞してしまう結果となりました。大久保にとってこれは生涯最も苦しい決断の一つでしたが、「感情より国家の利益」という信念を貫きました。
内務卿として近代化を推進
西郷下野後、大久保は内務省(ないむしょう)を新設して初代内務卿(ないむきょう)に就任。以後5年間、大久保は日本の近代化の最高指導者として以下の政策を断行しました。
廃藩置県(1871年・実施の主導者)、地租改正(1873年・土地税制の近代化)、殖産興業(工場・鉄道・電信の整備)、台湾出兵(1874年)——これらが大久保の「近代国家建設」の中核でした。
紀尾井坂の変
1878年(明治11年)5月14日、東京・紀尾井坂において、大久保の馬車が石川県の不平士族6名に襲撃されました。「西南戦争での西郷死亡の報復」と「大久保の専制政治への抗議」が動機とされています。
大久保は複数の刀傷を受けて即死しました。享年47歳。その死後、馬車の中から翌日の公務スケジュールと、建設途中の近代化計画の書類が見つかったとされています。
大久保利通の性格・人物像
「独裁者」か「近代国家の父」か
大久保は「独裁者」と批判される一方で、「日本近代国家の設計者」として高く評価されます。この対照的な評価は、大久保が感情より目的を、人気より実効性を、短期より長期を一貫して優先したことから生まれています。
西郷が「人を動かす人望」で動いたのに対し、大久保は「構造と制度」で国を動かしました。
西郷への複雑な感情
西郷との対立・西南戦争での西郷の死は、大久保に深い苦悩を与えたとされています。「西郷の死後、大久保は急速に老けた」という証言が残っており、かつての親友を敵に回したことへの痛みを終生抱えていたと言われています。
大久保利通の名言
「為政清明(いせいせいめい)」 政治は清らかで明るくなければならないという大久保の政治哲学を示す四文字。近代日本の政治の根本原則として語り継がれています。
「一年の計は農業にあり、十年の計は植林にあり、百年の計は人材育成にあり」 短期・中期・長期の優先事項を示した言葉。農業・植林・人材という3つの時間軸で国を考えた大久保の長期的思考を示します。
「小異を捨てて大同につけ」 小さな違いを超えて共通の大きな目標に団結せよという言葉。薩長同盟・明治維新の推進に際して大久保が実践した政治哲学です。
「強き者が従えるには徳を、弱き者が従えるには法を」 強者には徳で、弱者には法で対応するという統治の哲学を示した言葉。大久保の実用的・現実的な政治思想を示しています。
大久保利通ゆかりの地
大久保利通銅像(東京都新宿区) 新宿区内に設けられた大久保の銅像。
紀尾井坂史跡(東京都千代田区) 大久保が暗殺された場所に石碑が立っています。現在のホテルニューオータニ周辺にあたります。
大久保利通墓所(東京都豊島区染井霊園) 大久保の墓所。染井霊園には多くの明治の要人が眠っています。
仙巌園・尚古集成館(鹿児島県鹿児島市) 大久保が仕えた島津斉彬が整備した薩摩藩の近代化拠点。世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産です。
まとめ
大久保利通の生涯が示すのは、「国家の長期的利益のためなら、友情も人気も犠牲にできる」という政治家の孤独な覚悟です。西郷という最も親しい友を政治的に葬り、不平士族に命を奪われながら、それでも自分が正しいと信じた「近代日本の建設」に命を捧げた大久保は、明治という時代の光と影を最も体現した人物でした。



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