松平容保とは?生涯・会津藩・白虎隊・ゆかりの地をわかりやすく解説

幕府側・佐幕派

「ならぬことはならぬものです」——会津藩の教えを体現して最後まで幕府への忠義を貫いた松平容保。誠実さゆえに「朝敵」の汚名を着せられ、会津という美しい城下町を戦火にさらしてしまった悲劇の武将の生涯を解説します。

目次

松平容保とは

松平容保(まつだいらかたもり、1836〜1893年)は、会津藩(現在の福島県会津若松市)の第9代藩主で、幕末に京都守護職を務め、佐幕(幕府支持)の立場で最後まで戦い抜いた人物です。

尾張藩(愛知県)の支藩・高須藩(たかすはん)に生まれ、会津松平家の養子となりました。徳川幕府に対する絶対的な忠義心が容保の行動原理であり、その結果として戊辰戦争で会津藩は壊滅的な被害を受けることになりました。

明治維新後は会津戦争の責任として謹慎・差別的な処遇を受けましたが、のちに日光東照宮の宮司(ぐうじ)となり、1893年(明治26年)12月5日、57歳で没しました。

生涯の流れ

生い立ちと会津藩主への就任

1836年(天保7年)、尾張藩支藩・高須藩主・松平義建(よしたつ)の六男として生まれます。幼名は銈之丞(かねのじょう)。

18歳で会津松平家の養子となり、会津藩(23万石)の第9代藩主に就任しました。会津藩には「会津家訓(かいつかくん)」と呼ばれる厳格な家法があり、その第一条には「将軍家に対して二心を持ってはならない」と記されていました。この家訓が容保の生涯の行動を規定することになります。

京都守護職への就任

1862年(文久2年)、幕府から「京都守護職(きょうとしゅごしょく)」への就任を求められた容保は、藩の財政難を理由に固辞しましたが、最終的に受諾しました。

京都守護職は、幕末の京都で横行する尊王攘夷派の志士による暴力・テロ行為を取り締まり、天皇(御所)を守ることを目的とした重職でした。会津藩にとっては大きな財政的負担でしたが、「将軍家への忠義」という家訓がある以上、断ることができませんでした。

新選組(壬生浪士組)を配下として京都の治安維持にあたり、池田屋事件(1864年)での活躍も、容保の指揮のもとで行われました。

孝明天皇との絆

容保は孝明天皇(こうめいてんのう・明治天皇の父)の篤い信任を得ていました。孝明天皇から「頼みにしている」という御宸筆(ごしんぴつ・天皇自筆の文書)を賜り、容保はこれを生涯の宝として大切にしました。

この天皇との絆が、後に「朝敵」と呼ばれることへの強い抵抗感につながっていきます。「自分は天皇の信任を得ていた。それがなぜ朝敵なのか」という思いが容保を苦しめ続けました。

禁門の変・鳥羽・伏見の戦い

1864年(元治元年)の禁門の変(蛤御門の変)では、御所に攻め込んできた長州藩と戦い撃退。薩摩藩とともに長州を「朝敵」として認定させることに成功しました。

しかし1868年1月の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍が新政府軍に敗れ、徳川慶喜が江戸に逃亡。容保も大坂から江戸へ撤退せざるを得なくなりました。

会津戦争と降伏

戊辰戦争で最も悲惨な戦いの一つが会津戦争です。東北の諸藩が「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結んで新政府軍に抵抗する中、会津藩は最後まで激しく抵抗しました。

新政府軍の侵攻に対し、会津の城下では武士・農民・老人・女性・子どもも交えた必死の籠城戦(ろうじょうせん)が繰り広げられました。

白虎隊(びゃっこたい)の悲劇はこの時に起きました。16〜17歳の藩士子弟で構成された白虎隊が飯盛山(いいもりやま)に退却し、城下の煙を見て「鶴ヶ城(つるがじょう)が落ちた」と誤解して自刃(じじん)したのです。実際には城はまだ落ちていませんでした。

1868年9月22日、ついに鶴ヶ城(会津若松城)が開城し、容保は降伏しました。

戦後処理と日光東照宮宮司として

容保は謹慎・蟄居の処分を受け、長男・喜徳(よしのり)も斗南藩(となみはん・青森県)に転封されるという過酷な処分を受けました。

しかし明治政府内でも容保の誠実さ・忠義心を評価する声があり、後に日光東照宮の宮司(神社の最高責任者)に就任しました。日光東照宮は徳川家康を祀る神社であり、幕府への忠義を貫いた容保にとって最後の奉仕の場となりました。

松平容保の人物像

誠実さと頑固さ

容保の最大の特質は誠実さです。将軍への忠義・家訓の遵守・天皇への奉仕——これらへの誠実な姿勢が容保の行動を一貫して規定しました。

しかしその誠実さは同時に「融通の利かない頑固さ」ともなりました。薩長の台頭が明らかになってからも方針を変えず、会津藩を最悪の状況へと追い込んでしまったとも言えます。

「義」への強い執着

容保が孝明天皇から賜った御宸筆を生涯肌身離さず持っていたというエピソードが伝わっています。「自分は朝廷(天皇)のために戦った。それがなぜ朝敵なのか」——この矛盾が容保を苦しめ続けました。

松平容保の名言

「忠誠の一心のみ、死して後已(やんぬ)」 (忠誠心ただ一つ、死んでのちにようやく止まる)——容保の信念を示す言葉です。

「会津人は義を重んじ、死を軽んじる」 会津藩の気風を示す言葉として伝わります。白虎隊の自刃にも通じる会津武士の精神を示しています。

「ならぬことはならぬものです」 会津藩の子弟教育「什の掟(じゅうのおきて)」の最後の言葉で、容保が体現した会津の教えです。義に反することは、状況がどうあれ絶対に行ってはならないという道徳観です。

松平容保・会津藩ゆかりの地

鶴ヶ城(会津若松城)(福島県会津若松市) 会津戦争の舞台となった城。現在は復元天守が立ち、会津の歴史を展示しています。天守閣の白い漆喰(しっくい)が美しく、桜の季節は特に人気のスポットです。 公式サイト:https://www.tsurugajo.com/

白虎隊自刃の地・飯盛山(福島県会津若松市) 白虎隊が自刃した場所として知られ、隊士の墓・さざえ堂などが残ります。会津戦争の悲劇を今に伝える場所です。

会津武家屋敷(福島県会津若松市) 会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷を移築・整備した施設。会津の武家の暮らしと戊辰戦争の歴史を学べます。 公式サイト:https://www.bukeyashiki.com/

日光東照宮(栃木県日光市) 松平容保が宮司を務めた神社。徳川家康を祀る世界遺産の社殿群は「日光を見ずして結構と言うなかれ」と称される豪華さです。 公式サイト:https://www.toshogu.jp/

まとめ

松平容保の悲劇は「誠実すぎたがゆえの悲劇」です。「将軍家に二心を持ってはならない」という家訓に従った結果、会津という城下町を戦火にさらし、多くの家臣・家族・領民の命を失うことになりました。

白虎隊の自刃・会津城下の壊滅——これらの悲劇は容保が望んだものではありませんでしたが、その誠実な生き方が招いた結末でもありました。「義を守って散った会津」という記憶は150年以上経った今も福島・会津若松に生き続け、容保と会津藩への鎮魂の思いが絶えません。

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