1867年10月14日——265年続いた江戸幕府の支配が、この日に事実上終わりを告げました。将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を宣言したこの決断は、日本史上最も重要な政治的転換点の一つです。なぜ慶喜は政権を返したのか、その背景・経緯・影響を詳しく解説します。
目次
大政奉還とは
大政奉還(たいせいほうかん)とは、1867年(慶応3年)10月14日、第15代将軍・徳川慶喜が、江戸幕府の統治権(大政・たいせい)を天皇(朝廷)に返上(奉還・ほうかん)した出来事です。
「大政(たいせい)」とは「国家を統治する権限」のこと。源頼朝が幕府を開いた1185年以来、約680年にわたって武家が握り続けた政権が、天皇に返上されました。
大政奉還は、表面上は「平和的な政権移行」でしたが、その後の戊辰戦争が示すように、現実の権力移行は激しい内戦を経てなされました。
大政奉還の背景
薩長による武力討幕の動き
大政奉還の直接的な背景には、薩摩・長州を中心とする倒幕派の「武力討幕計画」がありました。
1867年(慶応3年)10月13日、薩摩・長州・芸州(広島)の三藩は、天皇から幕府打倒の命令書(「討幕の密勅・みっちょく」)を得ることに成功しました。これは幕府を朝廷の権威によって正式に「討伐すべき対象」とする文書であり、倒幕派が長年求めていた「武力討幕の大義名分」でした。
しかし翌10月14日、慶喜が先手を打って大政奉還を宣言したことで、この密勅は事実上その効力を失いました。「自ら政権を返した幕府」を武力で攻めるのは、道義的に難しくなったからです。
坂本龍馬の「船中八策」
大政奉還の発想自体は、坂本龍馬の「船中八策(せんちゅうはっさく)」から来ています。
1867年(慶応3年)6月、龍馬は土佐藩士・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に対して8カ条の政治改革案を提示しました。
主な内容は以下の通りです。
①天下の政権を朝廷(天皇)に返上すること(大政奉還)
②上下二局(上院・下院)を設けて公議輿論(こうぎよろん・広く意見を集めること)によって政策を決めること
③有能な人材を公平に登用すること
④海外の万国公法(国際法)に基づいて外交を行うこと
⑤古い律令(りつりょう)を改めて新しい法律を設けること
これらが近代日本の設計図として後の明治政府の政策に大きく影響しました。
後藤象二郎はこの案を土佐藩として建白書(けんぱくしょ・意見書)にまとめ、幕府に提出しました。慶喜はこの建白書を受け入れる形で大政奉還を決断しました。
大政奉還の経緯
二条城での宣言
1867年10月14日、徳川慶喜は京都・二条城の大広間に在京の諸藩重臣を集め、大政奉還を宣言しました。この場には40藩以上の重臣が集まっていたとされています。
慶喜は「徳川家は政権を担う資格を失っていないと信じるが、今の時勢を考えれば、政権を朝廷に返して公議輿論によって国を運営するべきだ」という趣旨の発言をしたとされています。
この宣言に対して、諸藩重臣は誰も反対を唱えませんでした。**突然の決断に驚き、言葉を失ったというのが実態だったとも言われています。
朝廷への奏上
翌10月15日、慶喜は朝廷(天皇)に対して正式に大政奉還を申し出る奏上書(そうじょうしょ)を提出しました。
朝廷はこれを「聴許(ちょうきょ)」(聞き届けた)として受け入れました。
慶喜の意図と計算
武力討幕を防ぐ
慶喜の第一の意図は「薩長による武力討幕を封じること」でした。大政奉還によって「幕府を武力で倒す必要がなくなる」はずだという計算です。
自ら進んで政権を返した以上、新政府が徳川家を武力で攻める大義名分が薄れます。これによって徳川家の存続と、新政府における主要な役割を確保できると慶喜は考えました。
「新政府の中心に徳川を」という期待
慶喜には「大政奉還後の新政府においても、徳川家が最大の大名として主要な役割を担い続ける」という期待もありました。
天皇を中心とした新政府の中で、徳川家は最大の実力者として事実上の主役を続けられると考えたのです。
計算の失敗
しかしこの計算は外れました。
12月9日、岩倉具視主導の「王政復古の大号令」が発せられ、「徳川家を新政府から排除する」という決定が宣言されました。徳川家の土地・権限の返上(辞官納地・じかんのうち)まで求められた慶喜は激しく反発。これが翌1868年1月の鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)へとつながっていきます。
大政奉還の歴史的意義
武家政治の終焉
大政奉還は、1185年(源頼朝の鎌倉幕府成立)から約680年続いた武家政治の公式な終わりを告げるものでした。この長い武家政治の時代が終わり、天皇を中心とした政治(王政復古)が名目上実現したことは、日本政治史上の画期的な転換点です。
比較的平和な政権移行への貢献
大政奉還によって「幕府を武力で完全に破壊する」という極端な展開は避けられました。戊辰戦争は確かに起きましたが、大政奉還なしの場合に比べれば、政権移行は比較的穏やかな形で進んだとも言えます。
特に江戸城の無血開城(1868年4月)は、大政奉還が生んだ政治的な流れの中で可能となったものでした。
大政奉還にまつわる逸話
坂本龍馬との関係
大政奉還が実現したのは1867年10月14日ですが、坂本龍馬が暗殺されたのはその翌月、1867年11月15日です。
龍馬は自分が発案した大政奉還が実現する瞬間を見届けながら、その1ヶ月後に命を失いました。このタイミングの悲劇性が、龍馬を「幕末最大のロマン」として後世に語り継がせる要因の一つとなっています。
勝海舟の評価
江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟は、大政奉還についてこう語ったとされています。「大政奉還で内乱の規模が小さくなった。慶喜は馬鹿だと言われるが、あの決断は正しかった」——これは大政奉還の意義を端的に示す評価です。
ゆかりの地
二条城(京都府京都市) 大政奉還が宣言された場所。世界遺産に登録されており、慶喜が諸大名に大政奉還を告げた「二の丸御殿大広間」が現存しています。大広間内には大政奉還の様子を描いた絵(複製)も展示されており、現地でその歴史的瞬間を体感できます。 公式サイト:https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/
近江屋跡(京都府京都市中京区) 大政奉還の翌月に坂本龍馬が暗殺された旅館の跡地。大政奉還と龍馬の死を結ぶ場所として幕末ファンに知られています。
京都御所(京都府京都市) 大政奉還の奏上書が提出された朝廷の御所。一般公開されており、幕末当時の朝廷の姿を感じられます。
まとめ
大政奉還は「賢い決断か、計算違いか」という評価が今も分かれる出来事です。薩長による武力討幕を防ごうとした慶喜の戦略的意図は、王政復古の大号令によって覆されました。しかし大政奉還という決断が「日本史上最大の政権交代」をある程度穏やかに実現させた面があることも否定できません。
何より坂本龍馬という一人の志士が構想した「大政奉還」という案が、実際に歴史を動かしたという事実——これが大政奉還を幕末最大のドラマの一つにしています。



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