幕末の女性たち|歴史を陰で支えた女性志士・武家の女性を解説

勤王・倒幕派の志士

幕末の歴史は坂本龍馬・西郷隆盛・新選組という男性たちの物語として語られることが多いですが、その陰に数多くの女性たちが存在しました。志士を支えた妻・情報を伝えた芸妓・武器を手に戦った武家の女性・教育者として時代を動かした女性——本記事では、幕末を生きた女性たちの知られざる物語を解説します。

目次

新島八重(山本八重)——「鉄砲を持った女」

新島八重(にいじまやえ、1845〜1932年)は、会津藩士の家に生まれ、戊辰戦争・会津戦争で男装して銃を手に戦った、日本史上最も有名な女性兵士の一人です。

生い立ちと砲術の習得

1845年(弘化2年)、会津藩の砲術師範(ほうじゅつしはん・大砲・鉄砲の指導者)・山本権八(やまもとごんぱち)の娘として生まれます。

兄・山本覚馬(かくま)が砲術・西洋兵学の専門家であったことから、八重は幼少期から砲術・銃の扱いを学びました。当時の女性として極めて異例の教育でしたが、父・兄がその才能を認めて教えたとされています。

会津戦争での戦い

1868年(明治元年)の戊辰戦争・会津戦争で、八重は男装して鶴ヶ城(会津若松城)の籠城戦に参加しました。スペンサー銃(連発式のライフル)を手に戦った八重の姿は、男性兵士たちも驚かせたとされています。

会津が降伏した後、八重は兄・覚馬を頼って京都へ移ります。

新島襄との結婚とキリスト教

京都で後に同志社大学の創立者となる新島襄(にいじまじょう)と出会い、1876年(明治9年)に結婚しました。キリスト教に改宗した八重は、新島の同志社設立に深く関わり、女子教育の普及に力を尽くしました。

明治・大正・昭和にわたる長い生涯(享年87歳)を通じて、教育者・社会活動家として活躍した八重は「幕末の女性」の枠を大きく超えた存在でした。日清・日露戦争での看護活動も行い、「日本のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれています。

坂本おりょう(楢崎龍)——龍馬の妻・日本初のハネムーン

坂本おりょう(さかもとおりょう、1841〜1906年)は、坂本龍馬の妻で、日本初の新婚旅行(ハネムーン)をした女性として知られます。

龍馬との出会い

本名・楢崎龍(ならさきりょう)。京都の医師の娘でしたが、幕末の動乱で家が没落し、苦境の中で龍馬と出会いました。龍馬との出会いの詳細には諸説ありますが、1864年頃に坂本龍馬と知り合い、深い縁を結んだとされています。

寺田屋の危機を救う

1866年(慶応2年)の「寺田屋事件(てらだやじけん)」では、おりょうが龍馬の命を救いました。伏見の旅館・寺田屋に宿泊していた龍馬を幕府の役人が急襲した際、入浴中だったおりょうが素裸のまま二階に駆け上がって龍馬に知らせ、龍馬は間一髪で逃げ延びることができました。

日本初のハネムーン

この事件の後、傷を癒やすために龍馬とおりょうは薩摩(鹿児島)を旅しました。霧島の山々を二人で歩いたこの旅は、日本初の新婚旅行(ハネムーン)と呼ばれています。

龍馬が1867年11月15日に暗殺された後、おりょうは各地を転々としながら生きました。享年65歳。

幾松(木戸松子)——「逃げの小五郎」を救った芸妓

幾松(いくまつ、1843〜1886年)は、木戸孝允(桂小五郎)が「逃げの小五郎」と呼ばれた逃避行の時代に、木戸をかくまい支え続けた芸妓(げいぎ)です。後に木戸の妻となりました。

志士をかくまった勇気

禁門の変・池田屋事件後、木戸は新選組に追われながら京都各地を転々と逃げ回りました。幾松は自分の旅館・置屋(おきや)に木戸をかくまい、幕府の役人に対して「知らない」「いない」と答え続けながら木戸の逃亡を助けました。

幾松はただ受動的にかくまっただけでなく、木戸に敵の動向・情報を伝え、逃走ルートを案内するなど積極的に関わったとされています。

木戸との結婚と晩年

維新後、木戸孝允と正式に結婚し「木戸松子(まつこ)」となりました。木戸が1877年に病死した後も、その遺徳を守り続けました。享年43歳。

幾松の物語は「愛と義のために危険を冒した女性」の典型として、現代でも多くの作品に描かれています。

月照を愛した阿多(おた)——西郷を支えた女性

幕末の西郷隆盛の人生に深く関わった女性が数人います。西郷が奄美大島へ流罪となった際に現地で結婚した愛加那(あいかな)は、西郷との間に子をもうけました。西郷が薩摩に帰還する際に愛加那と子どもは島に残ることになり、その別れは西郷の内面に深い影響を与えたとも言われています。

松尾多勢子(まつおたせこ)——尊王攘夷の女性志士

松尾多勢子(1811〜1894年)は、信濃国(長野県)出身の国学者・歌人で、「女志士(おんなしし)」として尊王攘夷運動に関わった人物です。

50代という年齢で京都に上り、公家・志士たちと交流しながら尊王攘夷の思想を広める活動を行いました。女性ながら政治的な活動に携わったという意味で、幕末における女性の政治参加の先駆けとも言える存在です。享年83歳と長命で、明治の世まで生きました。

中沢琴(なかざわこと)——水戸藩の女性志士

中沢琴(1844〜1867年)は、水戸藩の家臣の娘で、尊王攘夷運動に身を投じ、23歳で亡くなった悲劇の女性志士です。

水戸藩は幕末に激しい内部対立(天狗党の乱・1864年)で多くの犠牲者を出しましたが、琴はその渦中に生きた女性でした。

白虎隊と会津の女性たち

戊辰戦争・会津戦争では、多くの女性が戦火に飲み込まれました。

中野竹子(なかのたけこ、1847〜1868年)は会津藩士の娘で、娘子軍(じょうしぐん)を率いて新政府軍と戦い、21歳で戦死した女性武士として知られます。薙刀(なぎなた)を手に戦場に立った中野竹子は、会津女性の象徴的存在です。

山川捨松(やまかわすてまつ、1860〜1909年)は会津藩主家の一族の娘で、会津戦争を幼少時に経験した後、岩倉使節団に同行してアメリカに留学。アメリカで高等教育を受けた最初期の日本人女性の一人となりました。帰国後は大山巌(おおやまいわお・陸軍大臣)と結婚し、日本の女子教育・社会活動に貢献しました。

幕末の女性たちに共通すること

幕末を生きた女性たちに共通するのは、「時代の激流の中でも自分の信じることに従って行動した」という点です。

おりょうは愛する龍馬の命を救うために素裸で駆け出しました。幾松は愛する木戸を守るために役人の前で嘘をつき続けました。新島八重は会津の義のために銃を手に戦場に立ちました。中野竹子は薙刀を手に戦場で命を落としました。

彼女たちは「歴史の脇役」ではなく、自分の意志で行動した歴史の主体者でした。幕末という時代を、男性志士の物語だけで語ることはできません。

ゆかりの地

新島八重・新島襄ゆかりの同志社大学(京都府京都市) 八重の夫・新島襄が設立した大学。京都御所の隣に位置し、八重に関連する資料・展示があります。 公式サイト:https://www.doshisha.ac.jp/

寺田屋(京都府京都市伏見区) おりょうが龍馬を救った寺田屋事件の現場。現在も旅館として営業しており、見学もできます。坂本龍馬・おりょうの逸話を語る場所として人気です。

会津武家屋敷・白虎隊自刃地・飯盛山(福島県会津若松市) 会津戦争で戦った新島八重・中野竹子ゆかりの地。白虎隊の自刃地・飯盛山とともに会津の女性の物語を感じられます。

中野竹子顕彰碑(福島県会津若松市) 薙刀で戦い散った中野竹子を顕彰する碑が会津に残ります。

まとめ

幕末の女性たちは「男性が戦い、女性は待つ」という固定観念を軽やかに超えていました。おりょうのように愛する人のために体を張り、幾松のように情報戦の最前線に立ち、八重のように銃を手に戦場に立ち、竹子のように戦場で散りました。

明治維新という「革命」を語るとき、これらの女性たちの存在を忘れることはできません。歴史に名前が残らない無数の女性たちも含め、幕末という時代を生き抜いた女性たちの物語は、その時代の人間の多様さと力強さを示しています。

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