幕末(1853〜1877年)は、日本史上最も激動の時代の一つです。わずか20数年の間に、260年続いた江戸幕府が崩壊し、近代国家・日本が誕生しました。本記事では、主要な出来事を年代順に整理し、それぞれの意味をわかりやすく解説します。
目次
幕末前夜(1840年代)
1840年|アヘン戦争(中国)
中国(清)がイギリスに敗北した報が日本にも伝わり、幕府・志士たちに西洋列強の脅威を強く意識させました。「清でさえ負けたなら、日本も危ない」という危機感が高まり、海防・国防への関心が急速に増しました。
1853年(嘉永6年)|黒船来航(ペリー来航)
6月3日、アメリカの東インド艦隊司令官・マシュー・ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀沖に来航し、日本に開国を求めました。幕府は即答を避け、翌年の回答を約束して退去させましたが、日本中に衝撃が走りました。
開国から安政の大獄(1854〜1858年)
1854年(安政元年)|日米和親条約締結
再来航したペリーとの交渉の末、幕府は日米和親条約(神奈川条約)を締結。下田・函館の2港を開港し、200年以上続いた鎖国が事実上終わりました。
1858年(安政5年)|日米修好通商条約・安政の大獄
大老・井伊直弼が天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結(無勅許調印)しました。これに反発した尊王攘夷派の志士・公家を大規模に弾圧した「安政の大獄」が始まり、吉田松陰・橋本左内らが処刑されました。
動乱の始まり(1860〜1863年)
1860年(万延元年)|桜田門外の変
3月3日、水戸藩・薩摩藩の脱藩志士17名が江戸城桜田門外で大老・井伊直弼を暗殺しました。「安政の大獄」への報復であり、幕府権威の失墜を象徴する事件です。
1862年(文久2年)|寺田屋事件・生麦事件
薩摩藩内の尊王攘夷派志士が京都・伏見の寺田屋に集結したところを薩摩藩自身が鎮圧した「寺田屋事件」(坂本龍馬が後に寺田屋で難を逃れる事件とは別)。同年、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した「生麦事件」が翌年の薩英戦争の火種になりました。
1863年(文久3年)|薩英戦争・攘夷実行と長州の挫折
薩摩藩がイギリス艦隊と交戦(薩英戦争)し、壊滅的な被害を受けて敗北。長州藩も下関海峡で欧米船を砲撃(下関戦争の端緒)しましたが、翌年に報復攻撃を受け惨敗しました。この敗北が「攘夷は不可能」という現実路線への転換点となりました。
同年8月18日、薩摩・会津両藩が結託して長州藩勢力を京都から追放(八月十八日の政変)。長州藩の影響力が一時的に後退しました。
1863年(文久3年)|新選組の結成
将軍上洛の護衛として組織された「浪士組」を母体に、近藤勇・土方歳三・沖田総司らが「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」を結成。後に「新選組(しんせんぐみ)」と改称し、京都の治安維持にあたりました。
幕末の山場(1864〜1866年)
1864年(元治元年)|池田屋事件・禁門の変
6月5日、新選組が京都三条の旅館・池田屋に潜伏していた志士たちを急襲(池田屋事件)。長州藩を中心とする尊王攘夷派が計画していた京都放火・天皇擁立計画が壊滅しました。近藤勇・沖田総司・永倉新八らが参加したこの事件で新選組の名が轟きました。
7月には長州藩が京都奪還を目指して挙兵(禁門の変・蛤御門の変)しましたが、薩摩・会津両藩に敗れました。幕府は長州藩を「朝敵(ちょうてき)」と認定しました。
1866年(慶応2年)|薩長同盟の成立・第二次長州征伐
1月、坂本龍馬の仲介によって薩摩藩と長州藩の間に同盟(薩長同盟)が成立しました。かつて激しく対立した両藩が手を結んだこの同盟が、倒幕運動の最大の推進力となります。
幕府が長州藩征伐に乗り出した「第二次長州征伐」では、近代的な軍制に改革した長州軍が幕府軍を次々と撃破。「幕府は最強の軍隊ではない」ことが明らかになりました。
明治維新へ(1867〜1868年)
1867年(慶応3年)|大政奉還・坂本龍馬暗殺
10月14日、15代将軍・徳川慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」を行いました。坂本龍馬の「船中八策」に基づく提案が実現した歴史的な政権移行でした。
しかし翌月、11月15日に坂本龍馬が京都・近江屋で何者かに暗殺されました。33歳の若さで、大政奉還実現直後の悲劇でした。犯人・依頼者については今も諸説あり、歴史の謎として残っています。
12月9日、薩長を中心とする倒幕派が「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を宣言しました。
1868年(明治元年)|鳥羽・伏見の戦い・江戸城無血開城
1月3日、鳥羽・伏見(京都南部)で新政府軍と旧幕府軍が衝突し、戊辰戦争が始まりました。約1万5千の旧幕府軍は約5千の新政府軍に敗れ、慶喜は江戸へ逃亡しました。
4月11日、勝海舟(旧幕府)と西郷隆盛(新政府)の交渉によって江戸城が新政府軍に無血開城されました。大規模な戦闘なく江戸を守ったこの決断は、後世「世界史的にも稀な平和的政権移行」と評されています。
戊辰戦争の終結(1868〜1869年)
東北・越後の戦い
東北諸藩は「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結んで新政府軍に抵抗しましたが、各地で敗れていきました。会津藩(松平容保)は激しい抵抗の末に降伏し、会津若松城が落城しました(会津戦争)。
1869年(明治2年)|五稜郭の戦い・戊辰戦争終結
旧幕府海軍を率いた榎本武揚が北海道・函館(箱館)に拠点を構え、最後の抵抗を続けましたが、5月11日に新政府軍の総攻撃を受け降伏。土方歳三はこの戦いで戦死しました。これにより戊辰戦争が終結し、明治新政府の支配が全国に確立しました。
明治初期・武士の時代の終わり(1871〜1877年)
1871年(明治4年)|廃藩置県・廃仏毀釈
7月、全国の藩が廃止されて府県に置き換えられました(廃藩置県)。武士の経済的基盤であった「藩」の消滅により、武士階級の解体が始まりました。
同時期に神道を国家宗教として整備する動きの中で「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」が行われ、全国の寺院・仏像が破壊されました。
1873年(明治6年)|徴兵令・廃刀令
士農工商の身分制度を廃止し、全国民から徴兵する「徴兵令」が施行されました。帯刀(刀を差すこと)が武士の特権であったものが、1876年(明治9年)の「廃刀令」によって全面禁止されました。
1877年(明治10年)|西南戦争
明治政府の急速な近代化・中央集権化に不満を持つ旧士族を率いて、西郷隆盛が鹿児島で挙兵しました。約半年にわたる戦いの末、西郷隆盛は熊本・鹿児島で敗れ、城山で自刃して果てました。
西南戦争の終結は、日本における最後の士族反乱であり、武士の時代の完全な終わりを意味しました。
幕末年表 早見表
| 年 | 主な出来事 | キーパーソン |
|---|---|---|
| 1853 | 黒船来航 | ペリー |
| 1854 | 日米和親条約 | 幕府・ペリー |
| 1858 | 日米修好通商条約・安政の大獄 | 井伊直弼 |
| 1860 | 桜田門外の変 | 水戸藩士 |
| 1863 | 薩英戦争・新選組結成 | 西郷隆盛・近藤勇 |
| 1864 | 池田屋事件・禁門の変 | 近藤勇・長州藩 |
| 1866 | 薩長同盟 | 坂本龍馬 |
| 1867 | 大政奉還・坂本龍馬暗殺 | 徳川慶喜・坂本龍馬 |
| 1868 | 戊辰戦争・明治維新 | 西郷隆盛・勝海舟 |
| 1869 | 五稜郭の戦い | 榎本武揚・土方歳三 |
| 1871 | 廃藩置県 | 大久保利通 |
| 1876 | 廃刀令 | 明治政府 |
| 1877 | 西南戦争 | 西郷隆盛 |
まとめ
幕末のわずか20数年の間に、日本は封建国家から近代国家へと劇的に変貌しました。この変化を「革命」と呼ばずに何と呼ぶでしょうか。坂本龍馬の暗殺・西郷隆盛の最期・土方歳三の函館での最後の戦い——幕末の人物たちの生き様は、変化の時代に人間がどう生きるかという永遠の問いを私たちに投げかけ続けています。



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