徳川慶喜とは?生涯・大政奉還・名言・ゆかりの地を解説

幕府側・佐幕派

「最後の将軍」として日本史に名を刻んだ徳川慶喜。大政奉還という歴史的な決断で幕府を終わらせながら、戊辰戦争では味方を見捨てて逃げたとも批判される——その複雑な人物像は今も評価が分かれ続けています。

目次

徳川慶喜とは

徳川慶喜(とくがわよしのぶ、1837〜1913年)は、江戸幕府第15代・最後の将軍です。

水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれ、一橋家を継いで幕末政治に関わりました。1866年(慶応2年)に第15代将軍に就任し、翌1867年10月14日、二条城(京都)において「大政奉還」を宣言して政権を天皇に返上しました。

明治維新後は静岡に蟄居し、写真・絵画・狩猟などの趣味に没頭。後に公爵・貴族院議員となり、1913年(大正2年)11月22日に77歳で没しました。幕末の主要人物の中では最長命の一人です。

生涯の流れ

聡明な一橋家当主として

1837年(天保8年)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれます。幼名は七郎麻呂。水戸藩は尊王攘夷の気風が強く、慶喜はこの環境で政治的感覚を磨きました。

一橋家の当主となり、その聡明さから幕閣の信頼を集め、将軍後見職に就任しました。

最後の将軍に

1866年(慶応2年)12月、第14代将軍・家茂の死を受けて第15代将軍に就任しました。就任を長らく固辞していたとされており、薩長が台頭する困難な時期での就任でした。

将軍就任後はフランスの援助を得た軍制・行政改革を積極的に推進しましたが、薩長の倒幕運動は止まりませんでした。

大政奉還(1867年10月14日)

慶喜の最大の決断が大政奉還です。坂本龍馬の「船中八策」を基にした土佐藩の建白を受け入れ、1867年10月14日に二条城の大広間に諸藩重臣を集めて政権返上を宣言しました。

慶喜の意図は二重でした。「薩長による武力討幕の名目を奪う」こと、そして「新政府においても徳川家が主要な役割を担い続ける」という期待でした。しかし薩長は12月9日の「王政復古の大号令」で慶喜の政治的排除を宣言。計算は外れました。

鳥羽・伏見の戦いと「逃亡」

1868年1月3日、鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍が衝突。戊辰戦争が始まりました。

旧幕府軍は兵力では優勢でしたが、新政府軍の「錦の御旗(朝廷の権威を示す旗)」を見て士気が崩壊。1月6日夜、慶喜は家臣団に何も告げずに軍艦で江戸に逃げ帰りました。

この行動が慶喜評価を大きく下げる最大の要因となりました。会津藩・新選組など多くの旧幕府軍が「将軍のために戦う」と信じていた中での突然の離脱は、彼らを事実上「見捨てた」と受け取られました。

謹慎と近代の市民として

江戸に帰った慶喜は上野・寛永寺に謹慎し恭順の意を示しました。江戸城の無血開城にも協力しました。

その後、静岡に移り、長い蟄居生活に入りました。写真・油絵・狩猟・自転車などの趣味に打ち込み、明治・大正を生き抜きました。1902年(明治35年)には公爵を授けられています。

慶喜の評価をめぐって

「英明の将軍」か「腰抜け」か

肯定的な評価としては「大政奉還という判断で大規模な内戦を回避した」「江戸城無血開城に協力して江戸の焼失を防いだ」「明治への移行を最小限の流血で実現した」などがあります。

否定的な評価としては「鳥羽・伏見での突然の逃亡が旧幕府軍の総崩れを招いた」「会津・新選組などを見捨てた」「大政奉還も自家の存続を図った政治的打算だった」などがあります。

近年の研究では、慶喜を「難しい時代を生き延びた現実主義者」として捉え直す動きがあります。幕府が存続することが日本にとって良かったかという問いに確かな答えはありませんが、慶喜が江戸城の平和的明け渡しに協力したことで多くの命が救われたことは事実です。

徳川慶喜の名言

「徳川のためでなく、日本のために政権を返す」 大政奉還の際の言葉として伝わります。徳川家の利益より国家全体を考えたという慶喜の言葉です。

「過去のことを悔やんでも仕方がない。現在の最善を尽くすのみだ」 謹慎・蟄居生活の中でも前向きに生きた慶喜の姿勢を示す言葉です。

「余は政治家としては失敗したかもしれぬが、人間としての生き方は誤らなかったと思う」 晩年の慶喜が語ったとされる言葉。政治的な失敗を認めながらも、人間としての自分を肯定しています。

徳川慶喜ゆかりの地

二条城(京都府京都市) 大政奉還が宣言された場所。世界遺産に登録されており、慶喜が諸大名に大政奉還を告げた「二の丸御殿大広間」が現存しています。 公式サイト:https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/

上野・寛永寺(東京都台東区) 鳥羽・伏見の戦い後に慶喜が謹慎した寺院。上野公園の一角に天台宗の名刹として残っています。

慶喜公屋敷跡(静岡県静岡市) 慶喜が長く暮らした静岡に史跡が残ります。

谷中霊園(東京都台東区) 慶喜の墓所。将軍家の慣例だった上野寛永寺ではなく、神道形式で葬られています。

まとめ

徳川慶喜の人生は「最も優秀な将軍が、最も不運な時代に生まれた」悲劇ともいえます。才能と知性に恵まれながら、時代の波に抗いきれず幕府を終わらせ、「逃げた将軍」として批判される一方で、77歳という長寿を全うし写真や絵画を愛する一市民として生き抜いた慶喜の後半生は、「時代に翻弄された男の別の物語」でもあります。

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