初代、神武天皇(じんむてんのう)~第三十三代、推古天皇(すいこてんのう)までの系譜です。

歴代天皇の系譜 歴代天皇の系譜・弐 歴代天皇の系譜・参

目次

第十六代、仁徳天皇(にんとくてんのう)

第十六代、仁徳天皇(にんとくてんのう)「后妃と御子」
第十六代、仁徳天皇(にんとくてんのう)「后妃と御子」系譜。

聖帝の世「さまざまな公共工事」
仁徳天皇(にんとくてんのう)は土地の開発、耕作の向上や利便性、効率性を高めるためさまざまな公共工事を行いました。

吉備の黒日売(くろひめ)と皇后の嫉妬
ある時、仁徳天皇は吉備国の黒日売(くろひめ)に恋をしますが、そのことを皇后である石之日売命は深く嫉妬します。

八田若郎女(やたのわきいらつめ)と皇后の嫉妬
大后の石之日売命が豊薬(とよのあかり:御宴)を開こうとして、御綱柏(みつながしわ:柏の葉で作る酒杯)を取りに木国に出掛けになった時、天皇は八田若郎女(やたのわかいらつめ)と結婚なさいました。

志都歌の歌返し(しつうたのうたがえし)「三色の蟲で仲直り」
大后の石之日売命と仁徳天皇の仲を口子臣とその妹の口日売、奴理能美の三人の「三色の蟲」の案で取り持ちました。

速総別王(はやぶさわけのみこ)と女鳥王(めどりのみこ)
仁徳天皇(にんとくてんのう)は、弟の速総別王(はやぶさわけのみこ)を仲人として庶妹(ままいも:腹違いの妹)の女鳥王(めとりのみこ)に求婚しました。

雁(かり)の卵(こ)
ある時、天皇が豊楽(とよのあかり:御宴)を開こうと、日女島(ひめじま姫島:大阪府の姫島あたり)に行幸(ぎょうこう:天皇が目的地に外出すること)なさった時、その島で雁(かり:ガン(カモ科の水鳥))が卵を生みました。

枯野(からの)という船
仁徳天皇(にんとくてんのう)の御世(時代)に、免寸河(とのきがわ)の西に、一本の高い樹があり、この樹を切って船に作ると、たいへん速い船が出来ました。

第十七代、履中天皇(りちゅうてんおう)

第十七代、履中天皇(りちゅうてんおう)「墨江中王の反逆」
仁徳天皇の御子の伊耶本若気王(いざほわけのみこ)は、伊波礼(いわれ)の若桜の宮(奈良県桜井市池之内)で天下を治め、第十七代、履中天皇(りちゅうてんおう)となりました。

水歯別命(みづはわけのきみ)と曾婆訶理(そばかり)
墨江中王の謀反があり、履中天皇は疑心暗鬼になり水歯別命を信用せず話、語ろうとしませんでした。

曾婆訶理(そばかり)の死と兄弟の語り合い
水歯別命(みづはわけのきみ)は、その危うさから曾婆訶理(そばかり)を殺しました。そしてその後ようやく兄弟で語り合うことが出来ます。

第十八代、反正天皇(はんぜいてんのう)

第十八代、反正天皇(はんぜいてんのう)
第十八代、反正天皇(はんぜいてんのう)の系譜。

第十九代、允恭天皇(いんぎょうてんのう)

第十九代、允恭天皇(いんぎょうてんのう)「后妃と御子」
第十九代、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の后妃と九柱の御子達です。

氏姓(うじかばね)の制定
允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、世の人々の氏性(うじかばね)が正しくない事を考え、正しくあるように定め改めました。

軽太子(かるのひつぎのみこ)と軽大郎女(かるのおおいらつめ)「禁愛」
木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)は皇位を受け継ぐことになっていましたが、「禁忌」を犯してしまいました。

伊余の湯へ島流し、そして心中
軽太子(かるのひつぎのみこ)は伊予湯(いよのゆ:愛媛県松山市)に島流しにされました。

第二十代、安康天皇(あんこうてんのう)

第二十代、安康天皇(あんこうてんのう)「大日下王を誤殺」
軽太子(かるのひつぎのみこ)が自害し後、弟の穴穂御子(あなほこのみこ)が石上の穴穂の宮(奈良県天理市田町)にて天下を治め、第二十代、安康天皇(あんこうてんのう)となりました。

目弱王(まよわのみこ)「安康天皇(あんこうてんのう)の殺害」
天皇の大后の長田大郎女(ながたのおおいらつめ:大日下王(おおくさかのみこ)を殺して娶し取った后)の、先の子、目弱王(まよわのみこ)に天皇は殺されてしまいます。

大長谷王(おおはつせのみこ)の怒りと目弱王の殺害
安康天皇(あんこうてんのう)が后の長田大郎女(ながたのおおいらつめ)の連れ子の目弱王(まよわのみこ)に殺されると、天皇の弟で当時まだ少年だった大長谷王(おおはつせのみこ)は、そのことを聞き、怒り、憤慨しました。

市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の殺害
大長谷王(おおはつせのみこ)は、市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ:履中天皇の御子で従兄弟)を一緒に連れ淡海へと狩りに出掛けました。

意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)の隠れ身
市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)が殺され、その王子の意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)は一緒に逃げました。

第二十一代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)

第二十一代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)「后妃と御子」
大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと:大長谷王(おおはつせのみこ))は、長谷(はつせ)の朝倉宮(あさくらのみや:奈良県桜井市脇本か)で天下を治め、第二十一代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)となりました。

若日下部王(わかくさかべのみこ)と結婚
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が、若日下部王(わかくさかべのみこ)がに逢いに行き求婚をした時の話です。

引田部の赤猪子の長い年月
ある時、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が遊びに出掛け、美和河(みわがわ:三輪山の初瀬川下流付近)に着いた時、美しい童女(おとめ)に出会いました。

阿岐豆野(あきずの)「童女の舞」
吉野宮(よしのみや:奈良県吉野町にあったとされる宮)におやってきた時、吉野川の岸辺に童女(おとめ)がいました。その容姿がとても美しかったので、天皇はこの童女と結婚し宮に帰りました。

葛城の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)
ある時、葛城山(かずらやま:奈良と大阪の境にある山)の上に登りました。するとそこに、大猪が出てきて、天皇が鳴鏑(なりかぶら:音の鳴る矢)でその猪を射た時、その猪が怒って唸りながら向かってきました。

袁杼比売(をどひめ)への求婚
天皇が丸邇(わに)の佐都紀臣(さつきのおみ)の娘の袁杼比売(をどひめ)と結婚するため、春日(奈良県春日町)にやって来ました。

三重の采女(うねめ)
また、長谷の枝の繁った欅(けやき)の下で、豊楽(とよのあかり:酒宴)を開いた時、伊勢国の三重(三重県北部辺り)の采女(うねめ) が大御盞を捧げ献りました。

袁杼比売との「宇岐歌、志都歌」
豊楽(とよのあかり:酒宴)の日に、春日の袁杼比売(おどひめ)が、大御酒(おおみけ)を献(たてまつ)った時にも歌を詠みました。

第二十二代、清寧天皇(せいねいてんおう)

第二十二代、清寧天皇(せいねいてんおう)
雄略天皇の御子の白髪大倭根子(しらかのおおやまとねこのみこと)、天下をお治め、第二十二代、清寧天皇(せいねいてんおう)となりました。

二皇子の出現「意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)」
山部連(やまべのむらじ)の小盾(をだて)が、針間国(はりまくに:播磨国、兵庫)の長官に任命された時、小盾(をだて)はその国の人民の志自牟(しじむ)の新築祝いの宴会に訪れました。

袁祁王(をけのみこ)と志毘臣(しびのおみ)の歌垣
意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)が宮に迎えられ、袁祁王(をけのみこ)がまだ天下をお治め第二十三代、顕宗天皇(けんぞうてんのう)になる前の事です。

第二十三代、顕宗天皇(けんぞうてんのう)

第二十三代、顕宗天皇(けんぞうてんのう)
市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の御子の袁祁之石巣別命(をけのいはすわけみこと)は、近飛鳥宮にて天下を治め、第二十三代、顕宗天皇(けんぞうてんのう)となりました。

置目老媼(おきめのおみな)「市辺之忍歯王の御骨」
顕宗天皇(けんぞうてんのう)が、その父王(ちちみこ)の市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の御骨(みかばね)を探し求めました。

大長谷王(おおはつせのみこ:雄略天皇)の御陵の破壊
顕宗天皇(けんぞうてんのう)は、その父王の市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)を殺した大長谷天皇(おおはつせのすめらみこと:雄略天皇)を深く恨み、その霊(みたま)に報復しようと思われました。

欠史十代(けっしじゅうだい)

二十四代、仁賢天皇から三十三代、推古天皇までは系譜のみの記載で古事記は完結しています。またその時代の天皇を「欠史十代」と呼ばれています。

第二十四代、仁賢天皇(にんけんてんのう)
第二十五代、武烈天皇(ぶれつてのう)
第二十六代、継体天皇(けいたいてんのう)
第二十七代、安閑天皇(あんかんてんのう)
第二十八代、宣化天皇(せんかてんのう)
第二十九代、欽明天皇(きんめいてんのう)
第三十代、敏達天皇(びだつてんおう)
第三十一代、用明天皇(ようめいてんのう)
第三十二代、崇峻天皇(すしゅんてんのう)
第三十三代、推古天皇(すいこてんのう)